リテイク 9
やがて窓の外に夕暮れが迫り、溶鉱炉で鉄が溶かされていくように夕日が山の彼方に溶けて、残った山々は影になった。ルッスーリアが自室に帰って行った後、ベルはベッドの上から窓を覗いて、移り変わる空を眺めていた。彼の部屋からは、屋敷の正面の車寄せが見える。
そこに一台の車が停まる。黒塗りの、いかにもといった高級車だ。けれど車に乗っている人物は、自分でドアを開けて出てきてしまう。現れたのは若い、少年といっても良い位の青年だった。東洋人らしい黒髪と黒い瞳が力強く光っている。スーツを着てはいるが、それが普段着慣れていないものであると一目で分かる。スーツを着て高級車に乗っているよりも、まだ、ジャージを着て走っている方が想像しやすい様な雰囲気を持っている。
押し開けられた正面玄関の広いドアを潜り、ロビーの高い天井を見上げる。ヴァリアーのベルフェゴールから連絡を受けて、五時間が経っていた。十代目のファミリーとして山本達が滞在しているボンゴレ本部から、ヴァリアーの屋敷までは車を飛ばして片道二時間弱で着く。その前の三時間が何にかかった時間なのかといえば、ここへ来る許可を取るのにかかった時間だ。ヴァリアーはボンゴレにおいて、治外法権的な地位を与えられている。独立暗殺部隊が特殊暗殺部隊と改められてからも、表向きはヴァリアーがボンゴレの下に入ったように見えても、その実、人員を動かせるのは隊長であるザンザスだけだった。
権利の問題ではない。権利としてなら、ボンゴレファミリーのボスである九代目と、十代目沢田綱吉にはボンゴレファミリーに属する人間全てを動かす権利がある。その権利は勿論ヴァリアーにも及ぶ。けれど長い間、独立暗殺部隊としてボンゴレファミリーの一部というよりは、一個の個別のファミリーのように過ごしてきたヴァリアーの人員が忠誠を誓っているのは、他でもない、ヴァリアーのボスである、ザンザスただ一人なのだ。そのザンザスの根城に乗り込み、しかも喧嘩を売りに行くというのだから、なかなか許可が下りないのも仕方がない。山本としては喧嘩を売りに行くのではなく、平和的な解決をするつもりで臨んでいるのだが、ザンザスの元からスクアーロを引き離してボンゴレ本部に連れてくる、と聞けば、相手が喧嘩に取らない筈がない。相手の城に行って喧嘩を売る以上、そこで殺される可能性は大いにある。それで沢田綱吉は、友人である山本がヴァリアーへ行くことを渋っていたのだが、遂には山本の剣幕に押されて折れた。その際綱吉が書いてくれた、ボンゴレファミリー十代目の雨の守護者山本武は、十代目ドン・ボンゴレである自分の使いとしてヴァリアーに出向する、という旨の書状が山本のお守りである。
何度か来たことはあるから、ザンザスの部屋への行き方は分かる。ロビーの大階段を上って続く廊下を歩き、更に二階分階段を上る。突き当たりにあるドアをノックすると、部屋の中からは不機嫌そうな声が聞こえた。
「よそ者が何しに来た。てめぇを呼んだ覚えはねぇぞ、帰れ」
さすがザンザス、と言って良いのだろうか。顔を見る前に足音だけで既に誰が来たのか分かって、その上で山本を拒否している。けれど山本には綱吉が書いてくれたお守りがある。
「そうはいかねーんだ。俺はツナの使いで来た。もちろん書状も持ってる。だからアンタに帰れって言われても、すぐには従えないのな」
書状が元々、山本をヴァリアーに行かせることを目的に書かれたものだということは勿論ザンザスには分かっている。守護者の一人を使いに出す程の重要な用件ならば、いきなり使いを寄越すなんてことはせずに必ず電話で連絡が入る。それでも、ファミリーのドン直筆の書状一枚は黄金よりも重い。帰れとは言えなくなったザンザスの部屋のドアを、山本はゆっくり開けた。絨毯にその痕は残っていないが、微かに鉄錆のような臭いがする。
「山本」
ドアを開くと、ローテーブルで書類の整理をしていたらしいスクアーロが、驚いたような丸い目で山本を迎える。驚くのはこっちだ。彼のトレードマークと言って良かった、腰まである長い髪がばっさりと断ち切られて、残った髪は辛うじて首筋を隠すくらいの長さまでしかない。
「スクアーロ!髪…切っちまったんだな…」
「お前もか?みんなそう言うんだぜ。それから何で切ったんだ?って。別に髪切るくらい普通の事なのに」
「髪切るのは普通でも、スクアーロが髪を切るのは違うんだよ。あんなに、…綺麗に伸ばしてたのに」
「おい、てめぇは綱吉の使いで俺に用があって来たんだったな?そいつとばかり喋ってないで、さっさと俺に用件を話してもらおうか」
痛ましいものでも見るかのように、そっと目を伏せた山本に、ザンザスは有無を言わさぬ口調で言った。どうせ些細な用件を作って来ている筈だ。それを聞き出して、さっさと追い返してしまいたい。
ザンザスはこの日本人の青年が嫌いだ。日本で行ったボンゴレリング争奪戦を行った時、雨の守護者のリングを賭けた戦いで、スクアーロはとても楽しそうだった。剣帝テュールを倒してからというもの、更に強い相手を探し求めて世界各国を旅しても自分より強い剣士に出会えなかった彼が、荒削りではあるが抜きんでた才能を持つ山本と剣と剣とをぶつかり合わせ、技の応酬を繰り返して、まるで子供のように夢中になっていた。
剣士という生き物が馬鹿なのか、それともやはりスクアーロが馬鹿なのか、戦っている時のスクアーロの中には、きっとザンザスも誓いもボンゴレも何も無かった。強い剣士と戦う、ということだけが本能に刻み込まれた男だ。本能の前では誓いも何も役立たずで、だから勝負に負けた時に、スクアーロは勝手に鮫の餌になろうともした。ヴァリアーのスペルビ・スクアーロであることよりも、剣士としてのスペルビ・スクアーロを取ったのだ。そのまんまスクアーロが鮫に食われてしまえば、それで終わる筈だった。ヴァリアーの、ザンザスに忠誠を誓ったスクアーロなど最初から居なかったんだと思えた。結局居たのは最初から、剣士としてのスクアーロだけなのだと。
スクアーロが戻って来ても、彼の本能を奮い立たせた男がザンザスは憎い。鉄の刃をぶつかり合わせて、それだけで山本はスクアーロと分かり合えたような顔をする。たったそれだけで。それだけのことで。けれどそれは、ザンザスには一生理解出来ない感覚だ。今からだって剣を扱おうと思えば、遅くはないだろう。そこいらの剣士よりも強くなる自信は、ザンザスにはある。だが彼は生まれついての剣士ではない。今から剣を選んだとて、スクアーロが見ているものは決して分からない。山本とスクアーロが、一体何で繋がっているのか分かる筈がない。
ボンゴレファミリーの十代目が正式に沢田綱吉に決まった後、スクアーロは何のかのと山本に世話を焼いているようだった。
八年前に八歳の子供だったベルの世話を焼くのは仕方がない。十四から一緒に暮らしているルッスーリアと慣れ合うのも仕方がない。けれど、十代目の守護者という部分を差っ引いても、スクアーロが山本の世話を焼いて、そして今日の手合わせの内容を楽しそうに喋るのを聞くと苛々した。とても耐えられなかった。
「ザンザス、俺、スクアーロをボンゴレに連れて帰りたいんだ」
「…許可する、なんて言うと思うか?くだらねぇ。用件がそれなら話すだけ無駄だ。帰れ」
執務机の前に真っ直ぐ立って山本は言った。スクアーロの居るローテーブルを背にして、ザンザスとスクアーロの間に立つようにすると、まるでスクアーロを守っているような気分に少しなった。
「そう言うと思ったぜ。でも、今のまんまであんた達二人とも幸せなのか?」
「ガキが他人の生活に口出しするな」
「俺にはさ、どんどん駄目になっていくみたいに見えるのな。他の奴と喋んないようにさせて部屋からもあんまり出さないで、軟禁じゃねぇか。スクアーロだって外歩いたりしたいだろ?また剣教えにきてくれよ」
「剣?」
唐突に話を振られて、スクアーロはきょとんと目を丸くする。振り返って見た彼の表情が、あまりに何も分かっていない風だったので、山本は少し眉を寄せてスクアーロに歩み寄った。ローテーブルの前に立って彼の目を見つめる。肩を掴んで、彼にも真っ直ぐに自分を見させた。
「本当に忘れちまったのか?」
「…うん、ごめん」
「なあスクアーロ、忘れちまったのかよ?前に言ってただろ、お前は踏み込む時に左肩が上がるから直せ、って。あれ直したんだぜ。それから斬った後、ちゃんと目逸らさないでいられるようになった。スクアーロが前使ってた技も真似して出来るようになったんだ。なあ、アクアリオンで助けてくれた時のことも覚えてないのか?戦ったことも?俺、あんなに勝ちてぇって思ったのはあんたが初めてなんだ。夏休みになったら、またボンゴレに来て教えてくれるって言ってただろ?忘れちまったのか!?スクアーロ、なあスクアーロ!」
「ごめん…分からない」
必死に自分に語りかける山本に答えてやれないことを、スクアーロは申し訳なく思った。いくら言われたことを思い出そうとしても、そんな記憶は出てこない。すまなさそうに眉尻を下げて、スクアーロは首を横に振る。
黒曜石のような目が潤む。肩を掴んだ手が震えている。く、と奥歯を噛み締める音がして、眉間に皺を寄せきつく目を瞑って、それでも堪えきれずに山本が涙を流す。スクアーロの手が彼の背中を撫で摩ろうとすると、その前に山本の肩を掴んだザンザスが、彼をスクアーロから引き剥がして思いきり頬を殴る。
「ぐあ…っ!」
涙に濡れた頬を殴られた山本は、受け身も取れないで床に転がった。
「ザンザス!」
咎めるように鋭い声をあげるのは、スクアーロだ。
「酷いだろ、こんな子供に!大丈夫か?」
床に膝を付いたスクアーロに助け起こされて、ますます山本は泣きたい気持ちになった。分からないと言われたのは苦しい。ある日空から降ってきた男に一撃で負けて圧倒的な力の差を見せつけられて、リベンジの為に必死で修業をした。やっとの事で試合に勝ったけれど、ちっとも勝った気がしなかった。今ではあの一戦が奇跡なんじゃないかと思える程、彼が強いことが分かる。何とか追いつきたかった。同じ所に立ちたかった。山本武が剣士になったのは、紛れもなくスクアーロという男の所為なのだ。
そのスクアーロに、剣も試合も全部忘れた、と言われて苦しくない筈がない。悔しくない筈がない。ドラマみたいに、何か印象的な一言でぱっと全ての記憶が戻る。そんなありがちな甘い期待を抱いていなかったとはいえない。
けれどそれよりも、掴んだスクアーロの肩があまりにも薄くて、悲しかった。
全身が剣を扱う為に無駄のない筋肉で作られて、まるで彼自身が銀色の一振りのようだったスクアーロの体が、剣を振り回す為に、細くはあったけれど強靭な筋で覆われていた肩が、山本の掌で泳いで、掴んだ手に思いきり力を入れたら壊れるんじゃないかとさえ思えた。今自分の背中を支えてくれている左腕の太さが前と一回りも違って、どうしようもなく悲しい。
スクアーロならば自分がザンザスに殴られて、酷いだなんて言わない。助け起こしたりなんかしない。剣を扱わない、戦わない体になっているスクアーロに触れて、山本はどうして良いか分からない。剣士という生物で、戦わないと死んでしまうような生き物だったスクアーロが、こんな風になっているだなんて。自分が取り戻しに来たのは、一体何だったのか。誰だったのか。山本は分からない。
「山本。悪いけど、俺はボンゴレには行かない」
「はは、そう言うと思ったのな。そっかぁ…来ないかー…」
「うん。ごめんな。ここに居るって決めてるから。それに俺は幸せだから」
言いながら、スクアーロは山本を廊下へ送り出した。殴られた頬は腫れるだろうから、医務室に寄って湿布を貰って行った方が良い、とも言い添えた。既に赤くなった頬が痛んで笑いにくそうにしながら、山本は力無く笑って見せた。
廊下にある窓を見ると、もう外は真っ暗になっていた。森ばかりに囲まれた屋敷の周りは、夜になると街灯の一つもない。ここへ来た時に乗ってきた車にまた乗り込んで帰る途中、山本はスクアーロの肩の感触を思い出す。鍵がかけられているかと思いきや、ドアノブを捻ってみたら簡単に開いてしまったから、つい勝手に入ったスクアーロの自室だった部屋で、彼の剣や仕込み火薬、剣の手入れの為の道具を見つけた。もうメイドも掃除に入っていないらしい部屋で、剣や道具の上には白い埃が降り積もっていた。手で払うと舞った埃に咳が出る。ケースを開けてみると、剣はうすにび色に輝いて、今すぐにもまた使えそうだった。
山本は剣の入ったケースや火薬の箱、手入れ道具一式の埃を払って、ベッドの上に置いてきた。すっかり物の無くなった彼の部屋では、ドアを開けてすぐに目に入る一番目立つ場所だ。スクアーロがあの部屋に入った時に、すぐに見つけられるようにしたつもりだった。
けれどもう、あの肩に仕込み火薬入りの重たい剣が振り回せるだろうか。
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